打ち上げ花火 Personal Fan Page

打ち上げ花火の世界

ここには、打ち上げ花火に関する様々な思いや見解、謎解き、
どうでもよいような理屈や述懐がつめこまれています。

目次

●作品に関する履歴
●放映日 9月2日か? 8月26日か?
●なずなの気持ち
●男には、見栄とプライドがある(祐介の弁護)
●典道たちは何年生?
●なずなという名
●危うし! 〔打ち上げ花火〕に上層部の横槍?
●岩井俊二の泊まった宿は?
●なっとうをおいしくたべるには ハッハ
●ラストシーン 花火は一発か? 複数発か?
●梅雨を過ぎてもイイ感じで咲いている紫陽花の謎
●〔Forever Friends〕を歌っている人は?
●鬼の形相・母の気持
●プールのシーン、なずなのフリーズフレーム
●なずなの「夜の商売とか?」発言
●原作ドラマ、小説版、アニメ版、根底にある共通点
●原作ドラマ、小説版、アニメ版、それぞれのギミックの違い


作品に関する履歴

〔打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?〕は、岩井俊二にとっての、
それこそ運命の代表作と言ってよいと思います。
この作品は日本映画監督協会新人賞を獲得。
〔世にも奇妙な物語〕の後継番組としての〔if もしも〕シリーズは、木曜八時台のオムニバス形式のドラマであり、〔打ち上げ花火……〕はそこで放映されたドラマの中の一つに過ぎませんでした。

でもその放映当時、たかが一介のドラマとしてはあまりの出来のよさに、感嘆の思いで見た人は多かったと思います。

実際、その日のわたしの日記には、
「今回のifはよかった。成熟しつつある小学生たちの、友情や恋の物語。
演出も雰囲気も非常によい。花火を軸としたものである。ラストシーンで、
まいってしまった。いい感じ」
と、わざわざ記しているくらい。
それほど、他の単発ドラマとは明らかに一線を画すものがありました。
そして翌年の新人賞・受賞。
わたしが岩井俊二の名を意識したのは、それから三年半も後の「undo」でのこと。
そこから岩井作品をレンタル屋で借りまくっている内、ついに「打ち上げ花火」と再会し、たちまちそれはわたしにとっての『映画NO'1』なりました。

〔打ち上げ花火……〕のLD、そしてDVDを手に入れて以来、飽きもせずに幾度となく観たものです。
見るほどに、けちのつけようがない、丁寧な作品だと感じてしまいます。
映像も美しければ、音楽も体にしみ込むほどの心地よさ。
 たかだか一発放映のドラマに、この岩井俊二という監督(脚本も)は全く手をぬきません。

それ以前の作品、〔GHOST SOUP〕〔FRIED DRAGON FISH〕 等を見てもそれは明らかでしょう。
これら二つの作品は深夜枠にて放映されていましたけれど、いずれも〔打ち上げ花火〕と同じくビデオ化されています。

ただし、元来が〔if もしも〕としての、パラレルワールド形式が痕跡をとどめているあたり、そういう背景を知らないと物語の展開が意味不明に。
典道と祐介、どちらがプール競争で勝ったかによって、二種類の物語が展開されるのですが。
私などは却ってそれが味と感じる方ですが、「if もしも」のことをご存知ない人の中には、これが不自然で理解しがたい物語構成だとする者がいるのは事実。
ひどいのになれば、物語後半の、典道が勝ってなずなとかけおちするバージョンのことを、前半でプール勝負に負けてなずなが悲しみの結末を迎えたことを目の当たりにした典道の妄想だと解釈していた人がいるくらいですから。

でも〔if もしも 〕 のドラマ形式を知らないで見たところで、そこまで理屈っぽく考えるのは野暮の至りだと、わたしは思うのですが・・・。

GHOST SOUP

1992年クリスマスの季節に放映された深夜番組。まだロングヘアだった頃の鈴木蘭々を見ることができる。
クリスマスをテーマとした、心温まるストーリで、岩井俊二監督は毎年クリスマスシーズンに必ず見るという。

FRIED DRAGON FISH

1993年春に深夜番組として放映された。そこはかとなく漂うハードボイルドな雰囲気。
無垢な殺し屋・ナツロウ。根強い人気を誇る。主演は浅野忠信。

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放映日 9月2日か? 8月26日か?

フジテレビの公式記録によると、オンエアは9月2日となっています。

飯岡町のロケ地に残された スタッフの記念色紙にも、
「9月2日 OA 見て下さい」
とあります。

でも、先に引用した私の日記は、8月26日の日付です。
こうした日記は毎日書くもので、その日の台風のこともしっかり記されているのですから、間違っているはずはありません。
実は93年の8月当時、誘拐事件の話題がひろまっていました。そして当の8月26日放映予定だった〔if もしも〕は、
〔誘拐するなら 男の子か? 女の子か? 〕
これは、いくらなんでもまずい・・・。

かくして、〔打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?〕は、そんな不測の事体の中で予定を繰り上げられ、編集作業が終了したのがオンエアの4時間前……!

折からの台風のお陰で、視聴率は増大したと言われています。

【追記】しかし、以前ある筋からいただいた脚本の表紙には「1993.8.26 ON AIR」と明記してありました。
スタッフが勘違いしていたのか、あるいは8月26日の予定が9月2日に一度は変更となり、上記のエピソードによりまた8月26に戻ったのか。
謎です。
【追記】なお、2017年現在発売中の豪華Blu-Rayボックスについている「縮刷版脚本」にも「1993.8.26 ON AIR」とあります。
気になる方は、購入の上確認してみてください。

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なずなの気持ち

〔if もしも〕で、司会のタモリは、
「典道、祐介、どちらが勝ったにせよ、転校してゆくなずなの悲劇は変わらないのです」
とコメントしていましたけれど、それは違うとわたしは思うのです。
結果が同じであっても、経過によって内実は大いに異なってゆくもの。

「気が済んだ」と「気が済まない」とでは、物理的な違いは些少でも心に与える影響は大きく、場合によってはその後の人生に多大な影響を与えることすらあると思います(大袈裟?)。
飯岡駅で、かけおちが本物となる一歩手前までゆくことにより、なずなの心は大いに満たされたはず。
あの『かけおち』は、半分本気の『ごっこ遊び』のようなもの。
かけおちの始まり、あのバス停の前で、わざとらしく、
「あ〜あ、開いちゃった……」
トランクを開けた時の、なずなのいたずらっぽい笑み。
そこから、なずなの『魔法の時間』は始まりました。

勝手と云えば勝手。
慥かに典道もなずなのことが好きです。
でも、彼の気持ちに関わらず、なずなとしては、そう行動するより他になかったと思います。

かけおちをした後の、二人の生活を想像し、それを語って……。
余りに子供じみた、現実を知っているようで知らない夢物語。
それでも、なずなは典道よりも一歩大人の領域にいましたけれどね。
口紅をつけて、好きな人に、女としての自分を(どきどきしながら)見せて……。
いよいよ電車が来るという、その瞬間、魔法の時間は終わりました。
終わらせなければなりませんでした。

「え? 何の切符? ……あ、バス来てるじゃん。帰ろ!」

母親と共にこの町を去る現実からは逃れられないことを、なずなは判っていたと思います。
女の子ゆえの成熟であり現実性であり、ロマンス。
だからこその、束の間の逃避行。
両親の離婚でこの町を去らなければならないことへの、この曇った心を、どうすればいいのか……典と祐介の二人がいるプールで寝そべりながら、ふと思い付いた一つの計画。
典道が勝つという確信の元に思い付いた計画。

……。
夜のプールで、遠くに花火の音が響きわたるのを聞いたとき、思いもかけず、なずなの心は揺さ振られて。
典道には見られたくはなかったし、見られるわけにはいきませんでした、涙を。
あの、プールへ入る瞬間の、なずなのいたずらっぽい笑み。
その笑顔の裏にある、なずなの気持ち。
プールの水は、なずなの心を鎮めてくれたのかも。
典道は、プールの水のような存在だったのかも。

引越しの日、なずなは意外なほどの素直さで、母親とともに飯岡町を去っていった……そんな風に、わたしには思えます。

「今度会えるの、二学期だね……楽しみだね」

と云うような感じでわたしは勝手に解釈していますが、いかがでしょうね?(あくまでファンの解釈の一つってことで!)

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男には、見栄とプライドがある?(祐介の弁護)

こんどは男の子の側の気持ちとして、祐介を見てみたいと思います。
およそ小学生くらいまでの男の子は、色恋沙汰に興味はあったとしても、その優先順位はちょっと低めなのかな……という気がします。
そんなものより、男同士の義理や見栄を選ぶのかも。
好きな娘がいても、他の子とつるんでいじめたりのは、よくある光景。
もしくは、好きな娘ほど率先していじめるのは、その「好き」という気持ちを悟られないためのカモフラージュであり、照れなのだ、と云う話はよく聞きますが。

「あんなブス、好きなわけないじゃん」
と言った祐介のセリフは、少年の心理としてごくごく自然なものだったのかもしれませんね。
もちろん、当の女の子にとっては迷惑きわまりない言葉ではありますが……。

なにはともあれ、一見、軽薄そうに見える祐介の言動は、ある一面、男の子らしいと云う気がします。
とかく悪者あつかいされる祐介。
でも、そういう男の子の心理を踏まえた上で、彼の気持ちも汲んでやりましょうかね。

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典道たちは、何年生?

この年代は、そろそろ成長期へ入る子と、まだまだ幼い子と、個人差が激しくなりはじめる頃かもしれません。
みのるは、あの通り身体は小さいし、林くんは変声期に入りはじめています。
なずなに至っては、中学生にすら見えます。

とはいえ、物語の状況をざっと見れば、小学校の高学年とおおよその見当はつきます。
問題は、それが五年生なのか六年生なのか……。

嬉しいことに、岩井監督はちゃんとそれを実証する重要な手がかりを残してくれました。
結論からいうと、彼らは六年生です。
それは、
・オンエアは’93年
・物語後半、和弘のセリフ「犬年のくせに、早生まれのくせに」
これら二つの材料から考察してみると、典道たちは’81年・鶏年生まれの六年生ということになります。(林純一だけは犬年)

他にも、
・純一「まだ剥けねえじゃねえか」
・祐介 「なずな、どうしたの? 生理?」
などのセリフからも、いよいよ成長期へ入りつつある彼らを感じることができます。

それにしても……。
「早生まれのくせに、犬年のくせに」
などと、少し知識がかった罵倒をあびせるあたり、いかにも優等生らしい和弘です。
そんな彼も、近未来の『円都』では、すっかりグレて不良の仲間入りを果たしていたりするのでありました……。

追加情報

脚本によると、典道たちのクラスは〔6年2組〕であることが判明しました。

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なずなという名

平仮名三文字で、なずな。
音の響きも、字の見た目にもかわいい名前ですね。
漢字で書くと「薺」となり、よくぞこんな難しい字がネットで表記されたものだと感心してしまいます。

春の七草のひとつであり、開花時期は一月下旬から五月半ばまで。
もともと「撫菜(なでな)」から変化したと云います。
試みに、春の七草をすべて挙げてみると、
 1.芹(せり)−−−−−−−川辺・湿地に生える
 2.薺(なずな)−−−−−−ペンペン草
 3.御形(ごぎょう)−−−−母子草
 4.繁縷(はこべ)−−−−−小さい白い花「はこべら」
 5.菘(すずな)−−−−−−蕪(かぶ)
 6.蘿蔔(すずしろ)−−−−大根
 7.仏の座(ほとけのざ)−−正しくは田平子(たびらこ)

毎年一月七日に「七草粥」として食べるのが日本古来からのならわしです。
食べると、災いを除け、長寿富貴を得られると云われます。
しかし、ようするに、まあ、ぺんぺん草のことなのですが……。

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危うし! 〔打ち上げ花火〕に上層部の横槍?

オンエア直前、編集作業が完了したのは数時間前だと前にも述べましたけれど、完成したVTRを見たフジテレビ上層部の人間は、
「なんじゃこりゃあ! 深夜番組じゃねえんだぞ!」
その、あまりに個性的な映像に、怒鳴ってしまったと云います。

ゴールデンタイムに放映されるのは、万人の批判を受けないような無難な代物がいいのですけれど、しかしこれまでに無かった、溜息の出るほどに美しい映像に惹かれ、岩井俊二作品を深く心に留めた視聴者が大勢いたのは、動かない事実。
わたしもその一人ということになります。

さて、放映時間が、いよいよ迫ります。
まさか誘拐事件ネタを電波に乗せるわけにはゆかず、結局〔打ち上げ花火〕は、一部の人間の心配をよそに、しっかり日本全国へと感動を届けたのでした。
もし誘拐事件問題が発生せず、予定通り9月2日に放映されるようなことにでもなっていれば、中止にならないまでも、センスのない一部の人間の意向によって〔打ち上げ花火〕は横から見ようが下からみようが、味気ない作品にされてしまったかもしれません。
誘拐という悲劇が、それから後の数々の岩井作品を世に送る手助けをし、数多の笑顔を作り出したことを考えると、世の中って、面白いものだと感じられます。

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岩井俊二の泊まった宿は?

撮影中にスタッフや俳優たちの泊まった宿が、かならず存在するはず。
そしてそれは、飯岡町の付近だった可能性が高い。
ある筋から入手した情報によると、やっぱりありました、その名も『ホテル・サンモール』。
これはビジネスホテルで、飯岡町から車で十五分ほどの旭市にあります。

けれども、ホテルの人の話によると、撮影隊の泊まったような記憶がないとのことです。
う〜ん……謎は深まります。
【追記:2017.09】おそらくは、ホテル側としては守秘義務があるので答えなかったのかもしれませんね。

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なっとうをおいしくたべるには ハッハ

冒頭のシーンで、典道がテレビで観ているポンキッキーズの歌。
この歌は、シングルCD〔オーレ!チャンプ〕のカップリング曲とのこと。
ポニーキャニオンから¥800で発売。
ただし、今も発売されているかは、疑問ですけれど。

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ラストシーン、 花火は一発か? 複数発か?

あのラストシーンを観て、大方の人は
「残り玉一発の割には、随分と派手だこと」
と思われたことでしょう。
「あれは絶対に一発じゃない」
と、つまらないケチを付ける野暮もいるようです。
でも、あれはやはり一発だったと考えるのが妥当だとわたしは考えたい。

・まずは、視聴者からの視点。
・それから、見上げる典道の視点。
・さらに、灯台の上からの和弘たちの視点。
・そして決定的な要因は、『小割り』という種類の花火があるという事実。

花火業者さんをされている方からの情報によると、恐らくあれは『小割り』と呼ばれる種類の花火なのでは、とのことでした。(感謝)
わたし、最初は『スターマイン』だと思ったのですが、それは花火の種類のことではなく、打ち上げ方の種類であると、その業者さんからご指摘をいただきました。
一発打ち上げて、それが「バラバラ」と連鎖する華麗な花火は『小割り』だったと考えてよさそうです。
花火職人が言うんだから間違いない!
映像上の演出も加味し、あんなに派手に、複数発に見えるのでしょう。

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梅雨を過ぎてもイイ感じで咲いている紫陽花の謎

夜の校舎へ忍び込む、幻想的ともいえる美しいシーン。
RIMEDIOSの音楽の流れる中、アジサイがほのかなる月の光にうかびあがる……。

ちょっと待った! !
アジサイは梅雨の花なのでは? という疑問が、このWEBサイトの来訪者さんから寄せられました。
あまりに自然で美しい演出に、なるほど、わたしなどはまったく疑問にも思うことなく、そのまま流して観ていました。
言われてみれば、気になる……。

そこで調べてみました、アジサイの開花時期。
地方によってアジサイの開花時期には違いがあって、場所によってはコスモス(!)の隣に堂々と咲いている場合もあるようですけど……。
飯岡での開花は、6月20日あたりから。
そしてその開花期間は、約2ヶ月。

という訳で、花火大会のあった8月1日には、まだまだ立派に咲いているということが立証されたのであります。

【追記】豪華Blu-Rayボックスについている「縮刷版脚本」には、岩井俊二監督の手書きメモがそのまま印刷されていました。
そこに記されていた撮影スケジュールを見て、この問題は完全に解決。8月に咲く紫陽花もあるのだ。

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〔Forever Friends〕を歌っている人は?

 時々、
「REMEDIOSって、どんな人?」
とか、
「あの英語の歌って、誰が歌っているの?」
という質問が、メールで寄せられて来ます。

単刀直入に言って、あれは〔麗美〕という日本人アーティストです。
岩井俊二はコメントしました。
「Forever Friendsはその当時トモダチルートでしか手に入らない幻の逸品と化していたので、清水Dはトモダチ特権であの曲を使えたというカラクリです。
現在は「打ち上げ花火」のサントラに入ってます。聴くとわかりますが、あれは「打ち上げ花火」の時に作った曲なので、ちょっと変則的なアレンジになってます。
たかが一回きりの単発ドラマで僕たちはスタジオまで借りてあの曲をレコーディングしていたのです。
当時はレコードになるなんて思ってもみなかったので、本当によかったよかった」

これだけのコメントでは背景がよく見えないですが、それはともかく、麗美のことを。
麗美は、松任谷由美系統の歌手です。
というより、松任谷由美の弟子的存在だと聞いたことがあります。
その歌声は、松任谷由美をさらにキンキンに高くしたものだそうで。
わたしは〔Forever Friends〕以外でまた麗美の歌を聴いたことはありませんが。

〔Forever Friends〕を手に入れたい方は、

〔打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?〕のサントラを入手しましょう。

ポニーキャニオンより発売  定価2.000円
製造番号 PCCR00217
初回・96.7.19  再版・98.7.18まで

Forever Friendsの歌詞【2017.09.04追記】

こちらの、JOYSOUNDの「Forever Friends」検索結果ページにて参照可能。
昔は堂々とこのサイトに掲載しちゃってたけど、それはいかがなものか……と考えて、削除。代わりに上記ページへのリンクを貼っておきます。

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鬼の形相・母の気持

家出を企んだものの、祐介に裏切られ、その想いの一端を、典道へ呟くなずな。
「俺は、裏切らないよ」
「どうかな……裏切るよ、きっと……」
角を曲がったところで、母に見つかったなずなが、必死に逃げて、典道に助けを求めるあのシーン。
まるで、鬼のような形相で典道をにらみ付ける母の表情が、印象的でした。

昔は、単純に、
『怖い顔だなぁ……』
と思って見ていたものですが、でも、わたしも歳をとって、ある程度大人になったからでしょうか。
なずなの母の、その瞬間の気持が、何となく判る、ような。
先日、そのシーンを見て、改めてそう思いました。
『裏切られるの、血筋みたい』
どんな事情があったかは、なずなの台詞から憶測するしかありません。
裏切られた……と感じ、恐らくは精神的にも余裕をなくしていたその時に、娘までもが、家出まがいのことを。
どいつもこいつも、みんな勝手なことをして……!

親の事情に振り回されるなずなにも、なずなの言い分と気持があります。
しかし、家庭内の人間関係に傷付いていた母にもまた、母の気持があったはず。

物語は、なずなや典道の気持や行動をメインに語られています。
が、屹っと典道を睨みつけたシーン。
あれは、なずなの物語の背後にある、母の、切羽詰まった心情や事情を雄弁に語った一瞬だった……そう思えてみたり。

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プールのシーン、なずなのフリーズフレーム

10年以上ぶりに記事を付け足します。

昔、ファン同士でロケ地巡りをした時、ふと出た話題。
「プールのシーンで、なずなが一瞬だけ静止画になるアレ、どういう意図なんだろうね」
「さあ。綺麗なシーンだからじゃない?」
そんな会話をそばで聞いていたわたしは、(ふぅん、そんなもんかねぇ……)と思いつつも、聞き流し、忘れていました。
先ほど、11年ぶりに飯岡を訪問しようと考え、一通り再見していた時、件のシーンで、ふと思いついたことが。

あれは、なずなの気持ちを現したものなのではないでしょうか。
誰にだってあると思います、「この一瞬を、想い出としてずっと心にしまっておこう」という幸せな瞬間が。
親の離婚により引っ越ししなければいけない理不尽を目前にし、いまこの「典道とじゃれあう一瞬」を永遠に憶えていたい、と。
その一瞬の想い出がある限り、嫌なことでも受け入れられるかもしれない、と。

または逆に、楽しそうに水と戯れるなずなの姿をとらえた典道の視点、と考えることも可能かもしれません。
どちらにしても、その瞬間の風景を想い出としてとっておくことには変わりません。

その後のなずなが、どのような人生を歩んでいったかは判りませんが、そんな「幸せな瞬間」の記憶を持っているのといないのとでは、心の持ちかたがまったく違ってくるし、それが後の生き方にも幾らかの影響を与えたりするのでは、と思ったりします。

さて、これは私事で恐縮ですが、わたしにもあります、むか〜〜〜〜し、真夜中のプールに忍びこんだ想い出が。
ま、好きな子と一緒にとかいう甘酸っぱいものではなく、夏休み、1人でうきうきしながら小学校までの夜道をひたはしり、音を立てないよう、こっそぉぉ〜〜り背泳ぎ状態で夏の星空を眺めた程度ですが。
バスタオル持参という周到さでしたが、家に帰り着くまで誰かに見られたらどうしようかと、どきどきし、帰宅後も親に見つからないよう、こっそりシャワーを浴びるというあの背徳感。
あのわくわくした経験があったことが、「打ち上げ花火」を好きになる最初のきっかけだったけ。

後半は、どうでもよい自分の想い出話になっちゃってすみません。

2017.08.25

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なずなの「夜の商売とか?」発言

人の意見を気にするこたぁない、とわたしは考えていますが、ふと、アニメ版の感想にどんなものが上がっているか、ツイッターで徒然なるままに調べてみると……。
なずなの「夜の商売とか?」発言にひいている人もいる様子。
そこ、気にするかぁ……。

わたしの結論から言いますと、小学生も中学生も、つまるところ「子供」です。
そして、なずなはちょっとマセているのです。
まあ、中学生くらいになると、その程度の発想をする子は出てきそうですが、小学生だとマセている部類になるのではないかな、と。

マセてはいるけど、と同時に、それでもまだ世間を知らない子供でもある訳で。

あの、なずなの逃避行は、このページの上の方でも書いた通り、「現実には叶わない、一日だけの夢」とわかっていた上での行動、とわたしは解釈しています。(そうでなければ、典道を振り回す意味不明な言動の説明がつきませんしね)
その中で、「それでも、もし本当に駆け落ちしちゃうなら?」と考えると、夜の商売は女性が生き抜くためには現実的な選択肢であり、また、実際にそれで生活をしのぐ人も多くいます。
(ま、いくらなんでもなずなの年齢でそれをやると、すぐばれてつまみ出されるのがオチかもしれませんけどね)

そういう発想から、現実にはそうしないと判っていながらも「夜の商売とか?」と言ってみせるのです。

つまり、何を言いたいのかというと、
「そこに目くじらを立てるこたぁ、無いんじゃないの?」
ということです。

更にいうと(ヒロインにあるまじき発言、と思う人もいるかもしれませんが)、あのセリフは、お化粧をして、綺麗に大人びた自分の姿を、好きな子(典道)に見てもらいたいがための、なずなの照れのようなものという気もします。

照れ隠しでもあり、そしてまた「もし本当にこのまま駆け落ちしちゃうなら?」という「if」を想うなずなの気持ちからでた言葉、それが「夜の商売とか?」なのではないかと思うのですが、いかがでしょうね?

2017.08.30

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原作ドラマ、小説版、アニメ版、根底にある共通点

岩井俊二によるノベライズ版『少年たちは花火を下から見たかった』を拝読した時、
「なるほど……」
わたしの中で、すとんと落ちるものがありました。
『打ち上げ花火』の何に一体わたしは惹かれつづけていたのか。(20年以上たってようやく気づくのかよ、わたし)

原作ドラマは、他の〔ifもしも〕には無いあらゆる面を持っていました。
その中の大きな1つが「文学的」なのではないかな、と。
〔ifもしも〕内にかぎったことではなく、他のあらゆるテレビ番組と比べても、それは言える気がします。(や、他の〔ifもしも〕は、もはやこれっぽっちも記憶に残っていませんが)

小説版を読了した時、これはひとつの文学作品だ、と思いました。
そしてその「文学性」は、思い返してみれば、原作ドラマの根底に流れていたな……と気付いた訳です。
ああ、わたし、あんなに好きでいつづけれられた理由が、判った気がします。

そしてそれは、2回目を観に行って感じたことですが、アニメ版にも込められている気がします。
アニメ版について」のページにも書きましたが、アニメにする上で、重要な要素のひとつ「親の都合でこの町を去る事実からは逃れられないけど、今日だけは一緒にいたい。好きな人と」を、原作ドラマよりも明確にわかりやすくしてあります。
アニメと云うのは、そういう判りやすさが必要かもしれません。
また、アニメらしい大スペクタクルな演出も加味されています。後半の筋書きやギミック性も、原作ドラマや小説版と大きく違うところ。
そうした違いがあるものの、アニメ版にもまた「文学性」が根底に流れているように思えました。

少なくとも「とてもすっきり判るラストとエンターテインメント性」では終わっていないのは確かだと。(すっきりしなかったり、判りにくかったりするのが文学性という訳ではないけど)

「文学性」と云うのは、あえて言うなら……見たり読んだりした側が、自分の心の中に何かしらの波紋が生じるのを感じ、それが経験や気持ちに反応し、何かしらの拡張性が生じること、かなと。あるいは独特の余韻。

表面にあらわれる印象やギミック、筋書きの違いはあれども、この3つの媒体どれもに共通する、それが「文学性」なのではないか、とわたしは思うのです。

2017.09.02

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原作ドラマ、小説版、アニメ版、それぞれのギミックの違い

原作ドラマの台本1ページ目には、〔ifもしも〕の趣旨が書かれています。
それを引用させていただきます。

「ifもしも」は史上初の「結末のふたつあるテレビドラマ」です。
つまり、主人公の判断やちょっとした偶然の選択による「運命の分岐点」を描き、そこから全然別な方向に別れてゆくAの場合のストーリーとBの場合のストーリーとを両方ご覧いれようという企画です。
ですから当然、Aの結末とBの結末と両方あるわけで、台本を読んでとまどう方も多いと思いますが、この番組ではAもBもどちらも現実に起こっていることとして描きます。つまりどちらかが主人公の空想であったり、Aを選択して失敗した主人公が、人生をもう一度やりなおすためにBを選択しなおす、という意味ではないのです。
下のシンボルマークが示すようなドラマ、それが「ifもしも」です。
(ページ下に、Y字路のイラスト:筆者註 同様のイラストは「キャスト&スタッフ」や「関連CD、DVD」のページに掲載してある台本表紙にあります)

上記引用文、色のついた部分は、判りやすいよう管理人が強調表示させていただきました。

さて、小説版では、このギミックの束縛から脱しています。そのことが、文学媒体らしい格調を醸しているように思います。
アニメ版では逆に、「もしも玉」により、ギミック性を強調する方向に。ドラマ版と大きく違うのは、上記引用文中の「Aを選択して失敗した主人公が、人生をもう一度やりなおすためにBを選択しなおす」方向性に向かっている部分ですね。

まとめると、こんな感じ。
●原作ドラマ:どちらも現実に起こった出来事(ただし他の「ifもしも」とちがって、結末ではなく過程が違う)
●小説版:if的ギミックは無し
●アニメ版:if的ギミックを拡大させ、かつ「主人公がやりなおす」点があるのが原作との大きな違い

ところで余談ですが、アニメ版で典道が「Y字路であの玉をぶつけた」みたいな発言があって、「え、十字路じゃなく?」と思いましたが、ああなるほど、「ifもしも」のシンボル的イラストへのオマージュだったのね(たぶん)。

2017.09.02

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